私は「愛」について語れるような人間ではありません。
まだまだ学んでいる途中です。
そして、「愛とは...云々」とか、真面目顔で愛の定義を語っている人のことは信用ならないと思ってしまいます。(ふざけて “愛だよね〜” とかって使う場合は別として)
だって私たちは、愛とは何か?を知るために生きてるんじゃないのかな?と、なんとなく思っているから。
「これが愛ってもんなんだろうな」というカケラを拾い集めながら、歩いているのではないかと...
そして、人生最後の日にきっと気づく。
「自分は愛し愛されていたのだな。これが愛なんだな。」って。
<<移転しました>>
今日はフレディー・マーキュリーの命日
本日11/24は、イギリスのロックバンド『QUEEN(クイーン)』のボーカリストであるフレディー・マーキュリーの命日です。
先日、フレディーとQUEENの軌跡をたどる映画『ボヘミアンラプソディー』を見て、号泣したばかりです。
フレディーが『愛する勇気』を持って自分のしたいことを成し遂げていく姿に胸を打つ、素晴らしい作品でした。
QUEENが何度目かに来日した80年代、私は高校生でした。その時コンサートに行ってとても感激してしまい、後日もう一度コンサートに足をはこびました。
それ以来、何十年間もQUEENの曲を聴き続けているのに、歌詞の内容にこんな深い意味や想いや葛藤があったのか!ということ、つい先日見た映画ではじめて知りました。
フレディーの人生そのものや、QUEENのメンバーたちと共にたどった道のりの背景を知ると、歌詞の意味が深みを増してきます。
フレディーのご両親は、ペルシャ系インド人であるパールシー。幼い頃から音楽に触れ良い環境で育ったものの、政治的な革命が起こったため17歳でロンドンへの移住を余儀なくされました。
その後、人種差別や偏見の眼差しにあいながらも、創造性豊かな才能をどんどん花開かせていきました。結果だけ見るとそうです。
でも本当は、いくつもの葛藤が大きくいつも彼にのしかかっていたのです。
これでもか!っていうぐらいに、たくさんの矛盾を抱えつつ、前へ進んでいたのですね。
それでも前へ進んでいくことができたのは、「自分は孤独だ」という妄想に気づいてそこから抜け出せたこと。
そして、家族や友達やバンド仲間に愛されていること、自分にとってかけがえのない人たちが「そこにいる」ことに、改めて気づいたからです。
愛ってなに?をさがす旅
喧嘩したり、言い争いの末に仲違いしても、『相手のことを大切に想う気持ち』を失わない限りは、いずれそれぞれが何かに気づき状況が良くなることもある。
激しく罵られたり、裏切られたり、怒りを持ったり。そんな状態で相手のことを大切だと想うなんて、なかなかできるものではありません。
そんなとき、『愛する勇気を持つこと』で救われたりします。
これはとても抽象的なことだし、どうやったらそこにたどり着けるのか?も分からないし、そんな勇気を持てるようになるまでには時間がかかるかもしれません。
だから、具体的に「目の前にある情熱」に従って前へ進んでいくのです。
自分の中から溢れ出てくる「想い」を「行動」にし続けていくことで、愛する勇気を持つことができるのかもしれません。
フレディーから受けとったことです。
まだわからないけど、真逆には行かないようにしたい
愛って何?については、まだわからないけれど、愛とは真逆の方向に行ってしまうことについてなら、まだわかりやすいのかもしれません。
自分の独断と偏見によって「相手を攻撃すること」。
自分の価値観を押し付け「相手を型にはめようとすること」。
愛って何かな?を知るために生きているのなら、その真逆には行きたくないのなら、フレディーの「光と陰を統合していく旅路」からインスピレーションをもらえるはず。
もっと、もっと、自分のことに注力をそそぐこと。
もっと、もっと、周りの人を信じて見守る気持ちを強く持つこと。
「これが愛ってもんなんだろうな」というカケラを拾い集めながら、歩いていく道のりで、こんなことに気づいたので、カゴの中に入れてみました。